編集長日誌〜本の御しるし

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編集長日誌40

1月16日(月曜日)

橋口侯之介さんが本誌に連載している「江戸の古本屋」二月号の原稿によると、明治15〜20年の間に出来たと思われる古本仲買商の組合があり、「古本商仲買設立」という文書が残されているという。東京府下の古本仲買商、つまり、東京書林組合に加盟しているような書店に古本を探してきて卸す、いわゆるせどり商人が当時32名いた。実際はもっと大勢いたのだろうがきちんとした商人はそれくらいだったということだろう。その内現在も商売を続けているのは神保町の大屋書房と上野の文行堂の二軒だけという。これから120年後、現在の古本屋で残っているのは何軒か、今生きている人間には分からない。

土日は、書かなくてはならない原稿があって、炬燵と書棚の前を行ったり来たりしながら2日間過ごした。他は日曜の午後3時間ほどスポーツジムに行っただけだった。戦前の俳句入門書のリストと簡単な解説を書いたのだが、八勝堂さんの話ではないが、調べると正式な初版ではなく、例えば東京で出された本を数年後に大阪の別の出版社が復刊したようなものもある。その奥付には初版と書いてあるが序文を読むと違和感を覚えるものもあるし、明治の本を昭和期になって別の本屋が出しなおしたものもある。趣味本ではあるが実用書の類でもあるわけで、この世界には紙型を買い取りして出したような本は多いようだ。

1月17日(火曜日)

1月号の談話室を読んで古書通信社も大変らしいが大丈夫ですかと心配され方がいた。まあ、古書業界が大変な時は当社も苦しい。古書への関心が高ければ本誌への注目も集まるのだが、現況は厳しい。マスコミで古本や古書業界が取上げられることは増えたが古本屋の売上げには連動しない。問題は古書価の相場なのである。古書の値段が年々上昇していけば、自ずと古書への関心や購買欲もでるのだが、年々低下一方だから実際の関心は薄れていくのだ。将来高騰が予想される物に消費者の目は向くのである。

出版は働けば働いただけ収益が上がるかといえばそうではない。百万部売れる本も200冊しか売れない本を作るのも編集者の手間は(ベストセラーを出す才能の問題は別だが)同じなのだ。古本も同じではないが似たようなものだ。ある古本屋さんが、同じ利益を上げるのに以前の3倍動く必要がありますといっていた。しかし、今はどの業界も同じかもしれないな。本日の編集会議も反省しきりであった。

1月18日(水曜日)

午後5時をまわっても外が明るい、日が伸びているのだ。午後、古本屋の特集を企画しているという雑誌「男の隠れ家」の取材を受けた。発行部数15万部という。確かに書店の雑誌コーナーでよく目立つし、メジャーな雑誌である。その端数でもよいから本誌の読者に頂きたいと思うくらい羨ましい。最近の二月号は特集が「大人の湯宿」だ。そういえば、月曜日中央市で、えびなさんに挨拶したら、市をざっと見て、これから別所温泉に奥様と行くという。羨ましい。ところが昨日東京古典会で昼ごろまたお会いした。あれ別所温泉はどうしたんですかと聞いたら、いやあ素晴らしかったですよ。何度もお湯に漬かってきましたとのこと。とんぼ返りのような旅行である。純粋に温泉に入りに行ったのだ。冬の信州料理もおいしいかもしれない。しかし、川島幸希さんがおっしゃっていたが、良い古本屋は仕事好きだとのことだが、えびなさんもそうなのだろう。大した仕事もできないのに温泉に行ったらゆっくり骨休みなどと考えるようではとうてい先が暗いということか。

石神井書林さんの目録86号が届いた。260ページもある。特集は牧寿雄とその周辺、村山知義、矢野目源一、草野心平、長谷川四郎など。中に八代目林家正蔵自筆昭和31年日記がある。12万6千円。つまり笑点の喜久ちゃんの師匠彦六さんである。名声を得ても下町の長屋に住み続けた名人だ。几帳面そうな方でもあったが、毎日毎日一ページびっしりの記述があるという。そのまま活字にすれば本になりそうだ。もっとも、本にすると言ったら、あの少し間延びしたような声で「馬鹿〜いっちゃいけねぇ」というだろうな。

1月19日(木曜日)

2月号校正が佳境に入った。田中正造は晩年揮毫を求められると「辛酸亦入佳境」と書いたらしい。校正は辛酸ということはなくて、むしろ楽しい仕事の部類かもしれないが、私はいわゆる「笊校正」で、下手である。本格的な校正者になるとあるいは「辛酸」という感じも出てくるかもしれない。本日午後、プロの校正者でもある古い友人U氏がひょっこり事務所を尋ねてくれた。時に挨拶に寄って下さるのが嬉しい。以前、日本図書館協会で「図書館雑誌」の編集にタッチされていた関係もあろうが、しばらく前から愛知県のほうの図書館の仕事をされていたが、今度所沢の図書館の分館に職場が変わったとのことだった。管理委託制度による協会からの派遣だ。現在60歳で65歳までの契約とのことだった。校正者と司書の資格を持っているから身を助けてくれるのであろう。何の資格もないわが身が不安である。古本が好きという一事だけでさてこれからも食べていけるであろうか。

1月20日(金曜日)

東京は初雪だが山間部はともかく都心に積もることはなかった。東北の被災地もさぞ寒かろうと思う。雪で物資の流通が難しくなるようなことが無いよう望むばかりだ。

明治古典会には小栗虫太郎や夢野久作の本が出ていたが、どんな結果になったやら。他に俳句関連の書籍が多かったが欲しいと思うようなものは無かった。戦前の俳句雑誌「寒雷」や「鶴」「馬酔木」などがまとまって出てくれると良いのだが、まず出てこない。戦後出発期の「万緑」もまず見ない。即売会で耕治人の『詩人羅月』(昭和39年・感動律俳句会)という本を買った。もしかしたら前にも買って持っているかもしれない。「感動律」の主宰者内田南草からの依頼で萩原羅月の評伝を同誌に連載、本にするにあたって大幅に修正加筆して書かれたものだ。序文で経緯を耕が書いているが、依頼されるまで羅月のことは殆ど知らなかったらしい。耕治人が世に広く知られるようになるのは最晩年だから、本作品への自信を書いてはいるが身過ぎのための執筆であったのだろう。その内田氏は耕たちが出していた同人誌のメンバーだった。ただその自由律の俳句雑誌「感動律」と会社経営に忙しくそれまで深い付き合いはなかったようだ。羅月が亡くなった時、耕が、羅月に師事する、ある意味パトロンでもあった内田に悔やみ状を出したところ突然執筆依頼があったらしい。俳人ではなく詩人羅月を書いてくれと頼まれたようだ。羅月も奇人、内田も耕もまあ奇人だろう。三人の奇人によって世に出た本というわけだ。

1月23日(月曜日)

土日に引き続き天気が悪い。土曜の夜、封切された「Always三丁目の夕日64」を見てきた。初めて映画館で3D映画を見たが、私は弱い近眼だが眼鏡を掛けなければ映画は見えない。だから眼鏡の上から更に3D用の眼鏡を掛けるから、鼻が痛い。途中からティシュペーパーを鼻に当てて見た。まことに不便である。面白い映画だが、話の中に少年向け雑誌が漫画主体となり、読み物がどんどん減らされていき、今後は読み物は一本に絞るという話が出てくる。月刊漫画誌から週刊漫画雑誌への転換期が映画の舞台1964年、昭和39年ころだったのだ。私が小学校低学年のころは月刊「冒険王」「少年」が人気で、4年生ごろから「少年サンデー」「少年キング」「少年マガジン」が出始まる。一部50円だったと記憶する。月刊漫画雑誌には付録が沢山ついていたし、細密な挿絵を添えた冒険小説やチャンバラ小説がかなりのページを占めていた。週刊漫画誌にも初期には世界七大不思議とか謎の宇宙円盤に関する記事、007ブームでスパイや同じように人気の忍者に関する記事も多かったが、映画の話のようにやがて読み物記事は姿を消していった。たしかに、そうした状況のなかで仕事を失った作家もいたんだろうなと改めて思った。山川惣治や山中峰太郎、高垣眸などもっと昔からの少年小説作家は知っているが、その後の世代にはどんな作家がいたのだろう。福島鉄次という作家がいたことをちょっと覚えているが。

1月24日(火曜日)

実は、今年に入ってから毎日のように古本を買うのを控えている。何か買わないとその日が無駄であったように思ってしまう明らかな病に冒されてもう20年以上にもなっていた。いや、考えれば高校生のころからそうだった。それは買う喜びに加え、この仕事を続ける原動力なんだと嘯いていたが、安さにかまけて蔵書を増やし過ぎると逆にお金がかかる事態になってきた。以前なら一応は選んで買った本だから処分すればそこそこの金額になり、運送費など差し引いても割があった。その処分代金で別の違う高い本も買うことが出来た。ところが最近はよほど大量に処分しないと運送費も出ない。量が多ければ整理に時間も労力も使う。ただただ書庫のスペースを空けるために処分することになってしまうのだ。毎日毎日何冊も買っても、買うほど読みはしない。読まないことに後ろめたさはないし、買っておけば役に立つ日は結構来る。処分するのもつらくはないが、現状と限度というものは考える必要があると改める気になったのだ。ただ、毎日神保町古書街を見て歩くことはやめない。見るだけでも発見は多いのだ。いつまで続くやらと訝る友人もいるが、こう見えて割合意思は固いのだ。まあ、病気だからぶり返す可能性を否定はしないが。

そんなことで今日の昼休みも神保町へと出た。昨夜の雪もほぼ消えている。絶対に必要と思うもの以外は買わない方針としたが、私が偶然を求めて漁る均一台はこちらの熱が冷めたためもあるのか食指の動く本がこのところまったくないのだ。何が何でも一冊くらいと探す目とそうでない目は違うのだろう。ところが、路上で何度かご寄稿いただいている俳人の坪内稔典先生にお会いした。直接お目にかかるのは初めてである。すれ違いざますっと坪内先生と声が出てご挨拶することが出来た。歩くことで、編集上のアイデアが浮かぶことも多いし、人にも出合う。これからも神保町は歩くことをやめられない。

1月25日(水曜日)

本日の資料会に、中原中也『山羊の歌』の発行元文圃堂書店主であった野々上慶一さん宛のはがき手紙類が沢山出ていた。戦前の文圃堂時代ではなく、戦後のものがほとんどのようだが、差出人は小林秀雄や杉浦明平、井伏鱒二など昔から付き合いのあった作家のものが多かった。亡くなられて数年たつと思うが、場合によっては中也の書簡など珍しいのは別の市に出てくるのだろうか。

本日の市に、「時衆研究」というガリ版の同人研究雑誌を含む研究雑誌の二束が出ていた。不思議なオーラを感じ、これは珍しい価値ある資料に違いないと強めの入札をしたら、下札で落ちてきた。鳥取の金井清光氏などが出していた雑誌で後に発行所が変わるが活字印刷のものに変わり100号くらいまで出ている。今回落札したのは6号から36号までの私家版時代のものだ。日本の古本屋で検索すると1冊あたりの古書価は高い。しかし、売れるかどうかは分からない。ともかく、ガリ版雑誌の持つ熱気が私は好きで入札したくなるのだ。落札後詳しく見ると、広島大学の金子金治郎という方の旧蔵書と分かった。金子教授は昭和43年「莵玖波集の研究」で学士院賞を受賞した連歌研究者で「ホトトギス」派の俳人でもあったらしい。オーラは旧蔵者から出ていたのか。

1月26日(木曜日)

先日、女性の古本屋海ねこさんから古書目録4号を頂いた。絵本専門の目録で、B5判で254頁もある。昨年6月にヨーロッパ各都市を回り収集してきた古いヨーロッパの絵本特集になっている。福音館書店「こどものとも」が参考にしたというフランス人ポール・フォシェが第二次世界大戦下に苦労しながら刊行しつづけた「ペール・カストール・アルバム」など教えられることが多い。今もフォシェの息子フランソワが継承しているという。すごい力の入った目録で感心させられた。パリ、ベルリン、アムステルダム、コペンハーゲンなどでの古書店探訪記も面白い。女性のパワーはすごいな(三鷹市大沢4−17−13 古本 海ねこ 600円)。

手元に『重要美術品等認定物件目録』という昭和18年に文部省教化局は出した分厚い冊子がある。昭和8年に制定された「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」により認定された物件を道府県別に収めた目録である。540ページあるがその内東京府が230ページと半数近くを占める。京都や奈良が少ないのが不思議だが、重要美術品と国宝は管理、認定が別のためだろうか。戦時中のことゆえ、空襲などにそなえた調査記録であろう。欄外に旧蔵者まで記載されているのも面白いが、配列が所蔵者の住所によるため、例えば、本郷 西片の佐々木信綱博士と反町茂雄氏が並んで掲載されている。徳富蘇峰の蔵書だけで8ページも続くのもすごいものだ。青柳瑞穂が尾形光琳の「藤原信盈像」というのを所持している。たしか書画骨董趣味を持たれていたはずである。

27日(金曜日)

神保町の玉英堂書店から古書目録「新蒐古典籍百八十品」が届いた。巻頭は芭蕉の元禄三年一月十七日の杜国宛書簡45万円だ。杜国の病状を案じた内容で、有名な「初時雨猿も小蓑をほしげなり」など俳句も六句書かれている。私は事務所の机の前に岩波文庫『芭蕉俳句集』(中村俊定校注)を置いているのだが、この句の注にも「元禄三年一月十七日万菊丸(杜国のこと)宛書簡には冬と題」と書かれているので有名な書簡なのだろう。岩波書店の『芭蕉全図譜』には収録されていない。他の句「雪悲しいつ大佛の瓦ふき」は文庫では「悲し」が「かなし」、「瓦ふき」が「瓦葺」で、これは「花摘」によっている。「笈日記」では「初雪やいつ大佛の柱立」と句形が違う。表装されているが書簡を折った折れ目が付いている。

明治古典会は月末で特選市だ。最終台に田中恭吉の木版画が二点出ていた。一点は彩色されている。先月にも違うのが出ていたが、同じ荷主だろうか。水曜日の資料会にでていた野々上慶一さん宛てのもっと古い書簡はなかった。聞くところによると戦前のものはなかったらしい。そういえば李家正文氏の蔵書も出品されていた。便所関係本も多数出品との宣伝だったが、それ以外のなかなか興味深い文献が多かったようだ。

1月30日(月曜日)

金曜日夕方は、龍生書林大場啓之さんの「記憶に残る本」連載打ち上げを記念して二人でちょっと一杯。昔の古本屋さんの話あれこれで時の立つのをしばし忘れた。神奈川のくぬぎ文庫渡辺さん、大森のわかば書店木村さん、もう何十年も前の本誌目録欄の常連で私も懐かしい。また随分以前の景気の良い時代の話だが、ある市会の大市が近づくと会員には買い入れ資金が渡され出品物を集めるよう指示が出されたというような、今では考えられないような話もあった。各地の古本屋を回ってセドリすると旅費とちょっと飲むくらいの稼ぎが出来たものだという、私も少しは経験したことのある昔の話だ。

このところまたあちこちで地震が起きている。首都圏直下型M7以上の4年以内発生確率が7割を越すというような東大地震研究所の発表もあった。7割というのはほとんど起きるということに近い。3月のあの大きく強烈な揺れはまだ体が覚えている。あの日以降の地震の揺れ方が、同じ震度でもそれ以前とは違うような気がしてしょうがない。ずっと深いところでのゆさゆさとした横揺れと、もっと浅いところでの早い揺れが同時に起きているようなそんな感じがする。どうせ来るのなら早く来て軽微な被害で済んでしまえとも思うし、起きてしまえば首都圏の弱点が露わになって二次災害は防ぎようがないので、起こらない3割になってくれと果敢ないような希望をもったりもする。

1月31日(火曜日)

あっという間に1月も終わりだ。毎日毎日慌しく過ぎていく。机の周りの紙くずの山の中から少しはみ出た雑誌があったのでひっぱり出してみると、「書物春秋」の11号(昭和6年9月)だった。当時の神保町の古本屋十軒が集まり書物春秋会を作り、この雑誌や即売会を開いて互いを高めあった。記事と合同目録で構成されている。本誌創刊より三年も前だ。「編輯雑感」を明治堂の三橋猛雄が書いているが、その中に「最近の新聞紙に警察官の述懐として、世間に事件の起こらないのは、警察の並々ならぬ努力によるのだが、人々はそんな事は少しも考えず、一寸した事件でも起ころうものならすぐ警察の無能を叫んでやまない云々の記事があったが、一般に校正に従事する者はこの警察のグチに共鳴するであろう」とあった。成るほどとも思うが、これは古本屋が雑誌を編集発行した折の感想だからで、編集が専門となればそれは言い訳にしかならない。誤植は基本的には起こしてはならないのである。それはともかくとして、この十人の同人の中に直接私もお会したことのある方が3人いる。前記の三橋さんは本誌に「明治前期の女性観・婦人論」を連載したおり担当したし、何度か酒席も共にさせて頂いた。東陽堂の高林末吉さんは、現当主のおじいさんだが、和服姿で店にいたのをよく覚えているし、集金に行って一言二言お話したこともある。松村書店も今から二代前の龍一さんだがおぼろげに記憶がある。皆さん明治生まれの古本屋さんだ。福次郎顧問が直接会っていることは何物にも替えがたい意味があるといっていたが、本誌も長い経験を持つ古本屋さんのお話を紹介していきたいと考えている。一月号からの八勝堂さんに続き、四月号からは神保町一丁目の明文堂中根隆治さんのお話を紹介する予定だ。昔からお顔はしっているし会えば挨拶してきたが、詳しく話を伺うのは初めてなのだ。


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